■せっかくかわいく産んだのに、おまえはどんどんどんどん醜くなっていく―― 7年前の2013年に母が亡くなり、少しずつ母との関係を公に話すようになると、私が母から虐待を受けていたと記事にされることもありました。でも、私は虐待を受けたとは思っていません。今、ご縁をいただいて、母との思い出を書籍にまとめる機会を得、当時を思い出すにつれ、母がどんな思いで私に厳しくしたのか、手を上げたのか、暴言を吐いていたのか、薬物依存に陥っていったのか、母の気持ちが少しわかった気がします。 【この記事の画像を見る】
時代背景もあるのか、また、そうせざるを得ない状況だったのかもしれません。子どもにとって親は絶対的な存在。母が私に厳しく当たるのは、私が悪いせいだろうと思っていました。でも、今振り返れば、「母の行いは間違っていた」と思います。そう思えるようになったのは、つい最近のことなんですよ。■虫垂炎から人工肛門に。祖母に捨てられた思いと相まって 1935年、母・はる子は7人きょうだいの末っ子として長野県で生まれました。母が10歳くらいのとき、虫垂炎をこじらせ、腹膜炎を患い、処置が遅れたせいで一時期、人工肛門に。その後、10回以上の手術を繰り返したようです。母の悲運はそれだけではなく、祖母が酒乱の祖父を残し、家を出たのです。 バスに乗り込む祖母を伯母と2人で追いかけ、伯母はバスに乗れたけれど、母は間に合わずに置いていかれてしまったそう。そのときの寂しさ、悲しさは強烈だったでしょう。その後、生活を立て直した祖母は母を呼び寄せ、一緒に暮らすようになりましたが、母は常に“捨てられた”という思いを拭いきれずにいたようです。 腹膜炎の後遺症もあり、まともにお嫁にいけないだろうと考え、看護師の道に進み、東京の病院で働いていたとき10歳年上の医師である父と出会います。でも、2人が出会ったとき、父には妻と生まれたばかりの子どもがいたのです。奥さんに離婚を切り出すも応じてもらえず、2人が籍を入れたのは、私が生まれた後のこと。父は、幼い子どもを置いて家を出た負い目があり、慰謝料と養育費のために一生懸命働いていました。一方の母は、愛する人と添うことができたものの、親戚から「子どものいる家庭から父親を寝取った女」とさげすまれていました。 母の勧めで、小学校を受験しましたが、有名私立の志望校には受からず、国立の東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。母は異常なまでに教育に熱心でしたが、周囲を見返してやりたいという思いが強かったのでしょうね。母の目標は私を“医者にすること”だったのだと思います。 母は体が弱く、腹膜炎の後遺症のためか、いつも「痛い痛い」と床に伏せっていました。家事はほとんどせず、私の面倒をみてくれていたのは住み込みで働いていた家政婦さん。料理・洗濯・お米のとぎ方など、普通、母親から習うことはすべて家政婦さんから学びました。 私にとっては育ての親。家政婦さんがいてくれたおかげで、私の心のバランスは取れていたのだと思います。ただ、母から厳しくされていたことに対し、家政婦さんが母に意見することはありません。どんなに私が慕っても、私を含め家族と雇用関係で結ばれた間柄ですから。
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