Saturday, March 6, 2021

<あの日から 東日本大震災10年>「計画停電」教訓生かせ 首都圏混乱 市役所や大病院直撃 - 東京新聞

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周囲が停電で暗い中、非常用電源などで対処する市立川崎病院=川崎区で

周囲が停電で暗い中、非常用電源などで対処する市立川崎病院=川崎区で

 東日本大震災直後に首都圏で実施された「計画停電」は、地震や津波の直接被害がなかった地域にも混乱を広げた。とりわけ川崎市では市役所や大病院がある中心部も対象となり、あいまいな情報に振り回された。事故から十年。地域を疲弊させた「計画停電」の教訓は生かされているのか。 (中山洋子)

 「あたりは真っ暗。でも、計画停電のない多摩川の東京側はこうこうと電気がつき、歓楽街のにぎやかな明かりもよく見えました」

 川崎幸病院(川崎市幸区)の統括事務部長だった小林和彦さん(68)=現・新東京石心会理事=が振り返る。停電の夜、病院の屋上から見た光景だった。

 十三日夜に慌ただしく発表され、十四日から約二週間にわたり実施された計画停電は、命を預かる医療現場も直撃した。

 小林さんは自家発電用の燃料探しに奔走。なんとか確保したものの、当時の病院の設備は三時間ほどの停電しか想定していなかった。「病院は当時、救急車を年間六千台受け入れ、一刻を争うような患者さんも多かった。苦渋の選択だったが、停電がいつ始まるか分からない以上、受け入れられない。長時間に及ぶ大動脈瘤(りゅう)の手術も延期するしかなかった」

 東電や政府に病院を除外するよう訴えたが聞き入れられない。結局、同病院では計四回、停電になった。

 災害対策にあたる市役所や、災害医療拠点病院の市立川崎病院がある川崎区の中心部も例外ではない。二十三区の多くや、横浜・相模原市の中心部は対象外だったのに比べると、異例な苦境に立たされた。

 市立川崎病院の市東(しとう)昌也外科部長(60)は「川崎病院は地域医療の最後のとりで。ここで受け入れられなかったら医療が成り立たない、という心づもりでやっていた」と振り返る。

 計画停電の教訓から、国は震災の翌一二年三月に災害拠点病院の指定要件を見直し、通常時の六割をまかなえる自家発電設備と三日分の燃料確保を求めている。県によると、当時、県内では三十三の災害拠点病院のうち十一カ所が新要件に満たなかった。現在も一カ所が未整備のままだ。

 市立川崎病院は震災以前から、平常時の88%を発電できる設備があり、フルパワーでも三日運転できる燃料を確保していた。ほかで受け入れられなくなった患者も回ってくるようになったという。

 市東さんも、停電中の異様な光景が忘れられない。「信号も止まり、周囲は真っ暗で身の危険を感じた。明るかったのは川崎病院だけだった」

 「計画停電」が突きつけたのは、災害時にすら電力会社間で十分な電力を融通し合えない日本の送電インフラの弱さだ。その弱点は今なお克服されていない。NPO法人市民電力連絡会の竹村英明理事長は「既得権に固執する大手電力が送電網の整備を阻み、再生可能エネルギーの拡大も妨げている。災害対策としても送電網の増強を急ぐべきだ」と訴えた。

計画停電で真っ暗になった宮前区役所(いずれも2011年3月17日)

計画停電で真っ暗になった宮前区役所(いずれも2011年3月17日)

<計画停電> 大規模な停電を防ぐため、地域ごとに時間帯を決めて電力供給を停止する措置。「輪番停電」とも呼ばれる。東日本大震災直後に東京電力が約2週間にわたり実施。地域をグループに分け、約3時間ずつ電気を止めた。信号が止まったため交通事故による死者も出た。

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