■放送中の記憶がなく、特番を見て怒鳴っている自分を見て「言葉を失った」
震災直後、各放送局で緊急ニュースに切り替えられた。当然テレビ朝日系でも全国放送されていたが、情報カメラに映る岩手県宮古市の沿岸に今まさに津波が押し寄せている映像に覆いかぶさるようにテロップが乗っており、スタジオでは津波の接近に誰も気づいていなかった。その様子を見て、山田さんは岩手県から画面を通して「なんでここでその状況を伝えているんですか!いま来てますよ、津波が!いま到達してるよ、テレビ朝日!!」とデスクを叩き怒鳴った。
当シーンはニュース内では放送されておらず、一連のやり取りはその年の4月の報道特番『つながろう!ニッポン』で舞台裏として放送され、彼はその年のANNアナウンサー賞大賞を受賞した。昨年も3月11日に投稿された「これこそ真のメディアの姿」という視聴者のツイートには13万近くのいいねがつき、「アナウンサーの鑑」「何度見ても鳥肌が立つ」「涙が出た」などのコメントが寄せられた。6年前に社内異動があり、現在は営業職の山田理(さとる)さんが当時の様子を語った。
――2011年のANN報道特番では、山田さんが一刻も早くこの津波の状況を伝えなければいけないと心から叫ばれている姿が印象的でした。実際には放送されていない部分が特番で公開されることに対してはどのような思いがありましたか。
【山田理】正直驚きました。実は、放送中の記憶があまりないんです。とにかく必死で。特番のVTRを見て、言葉を失いました。小さい地方局がキー局のテレビ朝日に何を文句言っているんだっていう話ですよね。「本当にすみませんでした」という思いでした。
――それでも10年近く経った今でも、あの時の山田さんの対応が語り継がれています。特番放送当時の反響はいかがでしたか。
【山田理】実は、放送直後はそんなに反響はなかったんです。当時は、「あれでよかったのか?」「あの放送をしたからといって命を救えたのか?」と悶々と考えたりしていました。後輩からネットでの反響を聞いても見ないようにしていて、あの部分だけ切り取られても決して褒められることではないという思いはすごくありましたね。
■「誰もちゃんと想定ができていなかった」決してテレ朝の対応が悪かったわけではない
――改めて、震災直後に緊急ニュースが放送された当時の状況を教えていただけますか。
【山田理】あの時、地震によって東北各地の情報カメラが停電で動かなくなったんです。唯一動いていたのが、岩手県宮古市のカメラだった。でも、あのような大地震が起きると、緊急特番になってローカル放送はできなくなる。岩手県内の皆さんに伝えたい情報があっても、こちらで放送内容をコントロールすることはできないんです。
――そんな中、津波が沿岸に押し寄せている映像に覆いかぶさるように、津波到達予想時刻を知らせるテロップが乗っていたんですよね。
【山田理】映像を見ていて、さきほど6メートルを観測した津波に次ぐ第2波だと気づきました。しかし、当然のことなのですが、その時テレビ朝日は情報収集のために各所と連絡をとっていて、電話もインカムも混線しており、それに気づいていなかった。思い返してみると、そんな中で、僕のマイクなら誰か聞いてくれているのでは!?と思って叫んだような気がします。
――それで、山田さんの声に気づいたテレビ朝日がすぐに中継を繋いでくれた?
【山田理】いえ、正確には私の映像をチェックしていたテレビ朝日のデスクが怒鳴ってくれたことで、中継がつながったそうです。これまで、津波の生中継って世界でどこでもやっていなかったと思うんです。2004年のスマトラ島沖地震でも、津波の様子は、襲来後に視聴者映像がニュースに流れただけだと思います。もちろん訓練は何度も重ねていましたが、生中継で大津波が放送されるなんて、誰もちゃんと想定できていなかったのではないでしょうか。
――あの時のテレビ朝日の対応が必ずしも悪かったわけではない?
【山田理】私はテレビ朝日を批判しているわけでもなければ、当時スタジオにいたアナウンサーを批判しているわけでもありません。あのような状況の下、どうしたらいいか考える上で、必死に訴えたというだけです。キー局では30ほどのモニターを同時にチェックしていて、岩手だけでなく宮城からも福島からも、その他、全国各地から一気に情報が寄せられていたと思います。そんな中、私の叫びに気づいた方がいて、私を映してほしいと訴えたつもりはなかったですが、すぐに岩手に中継を繋いでいただいたのはありがたかったです。
――岩手県だけにあの津波の映像を緊急放送で流す、という選択肢もあったわけですよね。
【山田理】あの津波の映像を全国に流しても西日本の人は分からないといっても、関西から宮城に行っている友人や働いている人もいたかもしれない、と考えると、あの映像を全国に見ていただけたのはありがたかったと思っています。
――東日本大震災を受けて、仕事への意識の変化はありましたか。
【山田理】ありましたね。こんなんじゃだめだなと、今まで以上にやらなくてはいけないと強く思いました。訓練で鍛えられた部分はありましたが、圧倒的に足りないと感じました。震災以降に入ってきたアナウンサーには、地震を想定した原稿を渡すのではなく、当時の映像を見せて、スタジオでどう話せばいいか考えてもらう訓練を行っています。結局コメントを覚えても、実際の状況描写は見えているものを話さなければいけない。それなりにただ冷静に話せばいいということではなくて、岩手なら岩手、宮城なら宮城、福島なら福島で話すことは違う。それは映っている映像が違うからであって、そのことを理解してもらえるように指導しています。
■コロナ感染者に対する差別や偏見も… 震災から10年、今求められる報道の姿とは
――改めて昨年の山田さんのインタビューを掲載させていただきました。あれから1年、コロナ禍が続いていますが、昨今の新型コロナウイルスに関する報道に対してのご意見を伺えますでしょうか。
【山田理】ご存知の通り、岩手県は昨年7月まで感染者がゼロで注目を浴びていました。当時は実直な県民性などが高く評価されるなどしたため、個人的にも誇らしく感じていました。しかしこの状況が長く続いたことが、のちに感染者が出た時の差別や偏見を助長した可能性も否定できません。飲食店を利用する人が激減する中、夜間に営業をしているお店を利用することが、悪いことをしているように見られるのも本当はおかしいですよね。真面目な県民性が、逆に正義感の強い人同士の結束力にも繋がっているのかもしれません。普段の生活の中で気をつけるべき行動は何か。その日の感染者の数ばかりに目がいってしまう報道は避けた方が良いと感じています。感染ルートを特定しすぎるのも、微妙な思いで見てしまいます。改めて「新型コロナウイルス」というものについて、研究で何が判明されたのか。そして私たちはどのような生活を心がけるべきか、それに徹することではないかと考えます。
――「山田アナは今どうしているのだろう」というコメントが昨年も多く見られました。6年前に営業部へ異動されたとのことですが、報道への思いは今もありますか。
【山田理】もちろんあります。先月13日にも、深夜に東日本大震災の余震とみられる大きな地震がありました。報道特別番組を見るたびに、この状況ではどのように伝えるべきなのか。どのような原稿が必要なのか、どのような映像が適切なのかと考えてしまいます。ただ、営業部に所属していても部署間を跨いで業務する制度も新しくできたため、夏には高校野球の実況も手伝っていますし、番組制作に携わる機会もありました。今年の3月11日には、当社の報道特別番組に出演することになり、かつて取材した方々のもとを再び訪ねる予定です。10年という時間の経過と日々の生活や気持ちの変化について、お話を伺えればと考えています。
――昨年は「町の復興が進んだとしても心の復興が進まないこともある」と話されていました。今年で震災から10年、今後の目標を教えてください。
【山田理】これまでも災害報道とはどうあるべきかについて、社内でもたびたび議論を重ねてきました。何よりも津波の怖さを伝承していくことが我々の責務だと感じていますが、私は同時に、もっと「テレビが出来ること」を追求していきたいと考えています。今、岩手県が主催する三陸の水産加工品を集めた「オンライン商談会」の実施に向け、所属部署で準備を進めています。私はZoomで使用する参加企業のPR動画の制作と、商談会当日の進行を担当します。報道とは違う形で、震災の被害を受けた企業を取材する貴重な機会となりました。これからも被災された方々に寄り添いながら、地元のテレビ局として復興の道筋を記録し全国に発信していく一方で、この地域に暮らす人たちの役に立つことは何か、「もっとテレビが出来る事は何か」を追求し、新たな形にしていきたいです。
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